~8つの怨霊による戦国時代のはじまり~
『今出川駅』に戻ってきてそのまま突っ切り北へ。『相国寺(しょうこくじ)』という大きな寺へ着いたが時は既に16時を過ぎ、拝観時間も御朱印も終わってしまっていました(-ω-)
『相国寺』は後日再訪した時に改めて記事にするので、『相国寺』の北にある『上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)』へ。
周りは普通の住宅街なのに、神社は木でびっしりと覆い隠されていて不気味なムードを醸し出しています(((( ;゚Д゚)))
『上御霊神社』は「八所御霊(はっしょごりょう)」という八柱を祀っていますが、その八柱はいずれも政情に巻き込まれて非業の死を遂げた人たちで、『白峯神宮』に続いて怨霊を鎮める神社を訪れたことになりました。
祭神は以下の通りです。
・早良親王(さわらしんのう)
桓武天皇(かんむてんのう)の弟で次の天皇として立太子されるが、785年に自分の息子の安殿親王(あてのみこ)を次の天皇にしたい桓武天皇によって、藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺事件の首謀者に仕立て上げられて淡路国に流され道中亡くなる。
その後桓武天皇の身内の病死、疫病の流行、洪水などの被害が相次ぎ、早良親王の祟りとして恐れられる。
・井上内親王(いのえないしんのう)
聖武天皇の娘で光仁天皇皇后。772年に濡れ衣を着せられ皇后の座を追われた翌773年に、息子と共に幽閉されそこで亡くなる。
死後天災が相次ぎ、井之上内親王が竜になって祟ったと言われ恐れられる。
・他戸親王(おさべしんのう)
井上内親王の息子で光仁天皇の皇太子。しかし772年に母親に続いて廃太子となり、翌年母親共々亡くなる。
他戸親王の廃太子後、皇太子に擁立されたのが山部親王(桓武天皇)。きな臭いですね~。
・藤原吉子(ふじわらのよしこ)
桓武天皇夫人で藤原是公の娘(藤原南家)。807年藤原北家の藤原宗成(ふじわらのむねなり)によって息子伊予親王(いよしんのう)が謀反の嫌疑を掛けられた際に、息子共々大和(奈良)に幽閉。後に息子共々自殺。
この事件後、藤原南家は勢力を弱めていく。
・橘逸勢(たちばなのはやなり)
平安時代初期の貴族・書家で空海・嵯峨天皇と並ぶ「三筆」と言われ、遣唐使として唐に渡る。
842年の「承和の変」において、藤原良房(ふじわらのよしふさ)(藤原北家)は藤原家を母に持たない皇太子の恒貞親王(つねさだしんのう)に対して謀反を企てているとの濡れ衣を着せて廃太子に。そして橘逸勢もそれに加担としたとされ拷問を受けた後、伊豆へ流罪となりその道中亡くなる。
・文室宮田麿(ふんやのみやたまろ)
平安時代初期の貴族。843年謀反の罪を着せられ伊豆へ流罪。以後は詳細不明。
この人については何かよく分からないです。何故に謀反の罪に着せられたのか、何故に今までの5人と共に祀られているのか。
事件が「承和の変」の翌年であることや、「承和の変」の際に弟の文室秋津(ふんやのあきつ)が出雲に左遷されているとか、海上交通の要職に就いていて外国とも交易があったことから藤原家に疎んじられていたからでは?等と色々な説というか怪しい要素はありますが。。。天武天皇の玄孫だったりもしますが、さすがにね。
当初はこの六柱を祀っていましたが、後に以下の二柱が加わりました。
・火雷神(ほのいかづちのかみ)
雷神。上記の六柱の荒魂(あらみたま)。菅原道真説も有り。
・吉備真備(きびのまきび)
奈良時代の学者。称徳天皇(しょうとくてんのう)のブレーン。反藤原家の巨頭であったが、藤原百川(ふじわらのももかわ)との称徳天皇の後継者争いに敗れる。
以上の8つの怨霊を祀っているわけですが、元々は早良親王の祟りを恐れて桓武天皇が早良親王を祟道天皇と追称して祀ったのが始まりとなっています。
そして最初に『上御霊神社』に祀った六柱の共通点としては、
・政情に巻き込まれた末、濡れ衣を着せられる。
・京の都から追放され、そこで亡くなる。
この2点の様です。京からは追放されていない恒貞親王(『大覚寺』の住職になりました)は、だからいないんですね。
それでも伊予親王が祀られていないのは腑に落ちませんが、どうやら『下御霊神社』の方で、井上内親王、他戸親王 親子の代わりに、伊予親王と藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が祀られているようです。
ところで吉備真備もイマイチ条件に合いませんが、荒魂である火雷神に対しての和魂(にぎみたま)という解釈もあるようです。
『上御霊神社』は更に時を経て15世紀に歴史の表舞台に登場します。
1454年に有力武家で管領(かんれい)の畠山(はたけやま)家の義就(よしなり)と政長(まさなが)との間での家督争いが起き、それから色々とあった後1467年にここ『上御霊神社』の境内の森にて遂に義就軍と政長軍とが衝突しました。
この際に山名宗全(やまなそうぜん)が義就に、細川勝元(ほそかわかつもと)が政長に加担し、この時は政長が勝利して家督を継ぐことになりましたが、ここから山名家と細川家の勢力争いに発展しました。
ハイッ!歴史好きな方でしたらピンときたことでしょう( ̄Д ̄ )b
そうです『上御霊神社』は、あの「応仁の乱」発祥の地と呼ばれているのですね。
ただしこんな所でそんな合戦が行われたの!?って思っちゃうくらいに境内はさほど広くないのですが、当時は現在の2倍の広さあったようです。
最近の狛犬にはツノが生えていないのが多いですが、ここの子には立派なツノが生えてますね。
戦国時代が好きな方、ぜひとも訪れてみませんか !(メ`ロ)乂(ロ´*)!
さて、もう17時にもなったので帰り掛けに『相国寺』の写真を何枚か撮った後『今出川駅』から帰宅し、ようやく1日目の旅は終了。
いきなり神社5ヶ所、寺院5ヶ所、7枚の御朱印を頂いてきました。それと『京洛八社めぐり』も3個。
今回の旅行で御朱印をどれくらい集められるかよく分からず、大体神社と寺院それぞれ2冊あれば余裕かな?と思っていましたが、このペースだとどうなることやら(^^;)
(御朱印帳1冊につき48枚なので、48×4=192枚に対して、7枚×30日=210枚か~)
<『上御霊神社』の御朱印>
『上御霊神社』
参拝時間・7:00~日没
祭神・崇道天皇、井上大皇后、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫、文大夫、
火雷神、吉備大臣
ご利益・厄除け、心しずめ
交通アクセス・
地下鉄「鞍馬口駅」から徒歩3分
バス「烏丸鞍馬口」から徒歩3分
バス「出雲路俵町」から徒歩10分
HP・http://www.kyoto-jinjacho.or.jp/shrine/02/004/
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