『吉水弁財天』横の階段を登りちょっと進んだ所にあるのが『安養寺(あんようじ)』です。
そこそこ石段を上って行かなくてはいけない感じがタルくてちょっとスルーしようかな、なんて考えてしまったりもしましたがw(72段あるらしい、なに~)結局上ることに。(ー ー;)
『安養寺』は桓武天皇の時代、西暦800年前後の時期に天台宗の開祖最澄によって『天台別院』として建てられた古寺ですが、平安時代には荒廃していました。
そこから1175年に、後に『吉水弁財天』を建てる慈円(じえん)が法然(ほうねん)に援助して『吉水庵』として生まれ変わり、浄土宗の教えを広めるようになりました。
この後はどんどん発展していってお寺も拡大していき、後に浄土真宗の開祖となる親鸞(しんらん)も法然の弟子となり、「念仏発祥の地」と呼ばれるようにもなりました。
しかし1206年に起きた「承元の法難(じょうげんのほうなん)」によって法然は激しい弾圧を受けて流罪になってしまい、『吉水庵』も大打撃を受けます。
そこで慈円が本格的に『安養寺』の復興に着手して境内を整備したり、鎮守社として『吉水弁財天』を建てて再び復活し、ここから山号を『慈円山(じえんざん)』としました。
この後は南北朝の時代に『霊山派本山正法寺(しょうぼうじ)』の末寺となって時宗に改宗しましたが、さらに応仁の乱によって廃絶。
その後再興するも、江戸時代に境内の一部が『知恩院(ちおんいん)』に壌土されて縮小し、さらに明治元年の廃仏毀釈で境内の大部分を政府に取り上げられ、伽藍や塔頭の多くが失われてしまい、現在では非常にこじんまりとしたお寺として残されています。
その今は亡き塔頭の内の1つ『花洛庵重阿弥(からくあん ちょうあみ)』は歴史の大舞台に登場してきました。
1702年7月28日に『花洛庵重阿弥』にて、赤穂浪士の勇士18人が会議を行い、ここで「吉良上野介を討つ」ことを決断しました。
「忠臣蔵」の重要エピソードでもある「円山会議」の舞台となったわけですが、意外と無視されてしまっています。まあ実際に行われた場所というわけではないので扱いが難しいんでしょうね。
『花洛庵重阿弥』があった場所は『弁財天堂』の北東らしいですが、何も跡地的な印の類は残されていなさそうです。何か石碑の1つあっても良さそうなんですけどね。
ちなみに『円山公園』の名前の由来になったのは『安養寺』の山号『慈円山』からで、すっかり廃れてしまった古寺の往時を偲ばせます。
『安養寺』
開門時間・8:00~17:00
宗派・時宗
交通アクセス
京阪『祇園四条駅』から徒歩15分
阪急『河原町駅』から徒歩18分
地下鉄『東山駅』から徒歩17分
バス『祇園』から徒歩10分
HP・https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=10&ManageCode=211
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